利口系無重力blog@北大の管理者の中谷氏がサブカルチャー系の評論誌で夏コミに参戦されるということで、原稿を依頼されました。依頼当時、東浩紀氏の著作にやや刺激を受けて思うところがあったので、依頼を受けさせて頂きました。その結果できたのがこの記事で紹介する文章です。
中谷氏の配慮により、著作権は執筆者に帰属しブログでの公開も可ということでしたので、ここに転記します。

ちなみに中谷氏が制作された冊子は夏コミ会場に伺ってゲットして参りました。しかし、10時半すぎに会場に行ったのですが、入場制限を行っていて往生しましたw 他に目的のない僕のような者は昼過ぎ頃に伺うのがベストなのかも知れませんね。11時半頃でしょうか、帰り際にスタッフの方たちがゆりかもめの国際展示場前駅方面からの入場者をせき止める柵を撤去していましたし・・・。
ともあれ、以下に公開します。
"moeの彼方"
マンガ、魔法先生ネギま!原作者の赤松氏は、萌えを愛であると言った。それはいい。だが現象としての萌えを把握しようとするとその核心にはキャラクターがあり、そのキャラクターは断片化された様々な「属性」を再構成されたものであると見る向きもあるようだ。例えばネギまで言えば、構想段階で登場人物を設定するためにまず属性を決定し、その組み合わせを決定してからキャラクターに肉付けされたのは有名な話だろう。
その状況と、万人に共有されるような(大きな)物語が喪失した現状を併せて、現在を「データベース消費」の時代と論じる評論家もいる。既出の要素は組み合わせの材料に過ぎず、新出の要素は新たに標本化されて既知のものとされる状況が、萌え業界にはある。それも別に構わない。だが、どうもこの状況は萌えに限った話ではないようだ。音楽やそのほかの芸術、漫画や文学さえも、「すでに語られたこと」を組み合わせているようにも見える。無数に増殖する表現ジャンルごとの要素の、可能な限りの組み合わせの果てにあるものは、いったい何なのだろうか。
この状況はグローバル化がもたらしたものだと、個人的には考えている。少なくとも音楽やそのほかの芸術、文学などはそうだろう。だがこれまで日本で発展した漫画やアニメ、そして燃えや萌え(以下、併せてmoeと表記する)はどうなのか。結論からいえばこれらもグローバル化の産物に似たものだと考える。作られているのは日本だが、それぞれの作品に載せられるmoeの属性は、地域や時代を超え、現実と空想さえ飛び越えて収集されたものだからだ。しかし、これをグローバル化と呼ぶのは矮小化だろう。僕はこの状況を、アニミズムの復権ではないかと愚考している。
日本には神道がある。神道と告げると先の大戦と自動的にリンクする人も居られるだろうが、天皇と頑なに結びつけられた大上段のものを指す意図は僕には無い。田舎道の道祖神さんであるとか、山河やいくつもの動物。万物と万象を無限に飲み込んでいこうとする、ある意味どん欲で素朴な体系が神道の本質だと僕は思う。世界の全てを標本化し尽くさんとするこの衝動は、グローバル化であるとか、拡大を続けるGoogleにその姿を同じくしているようにも見える。……いや、逆だ。例えばGoogleは、WWWの全てを飲み込みたいようだが、その結果現出するのはグローバルな情報共有であり、脳の機能の外部化・外脳化である。だがこれは、人間の文化史を紐解けば、世界を支配したり同化しようとしたアニミズムの衝動を受け継いでいるようにみえる。転じてmoeは、時間や空間を超えて宇宙の全てを飲み込もうとするヒトのどん欲で素朴な衝動ではないのか。そう思う。
moeの衝動は、果たしていつまでも続くだろうか。個人的には不吉な予感がある。現在のmoeの隆盛は、カンブリア爆発に似ている。人類だけではなく地上の生命はカンブリア爆発を生き抜いた者の子孫だが、五億数千万年前に生物は極めて多様に分化し、大量に絶滅した。先のことは分からないが、(冗談交じりでも)絶滅が危惧されるほど日本人は今後減りゆくし、それに併せて経済活動も低下しmoeを生み出す環境も縮小を余儀なくされるかも知れない。それどころか世界規模でみても、資源枯渇や気象変動などの対処が難しい人類的な問題が横たわっている。moeの未来は暗いかも知れない。
だが、いまある地上の生命はカンブリア紀を生き延びた。カンブリア紀を進化の実験室と呼ぶ向きもあるらしいが、多様化を続けるmoeはもしかしたら同様に実験し峻別するための現象なのかも知れないとも思う。実験の全容は分からないが、少なくともその実験には最初に述べたように「愛」が含まれているだろう。果たして僕らはmoeという状況を護り続けるのだろうか。それともそこから、次代に連なる新しい何かを見つけ出すことになるのだろうか。そんなことをいま、考えている。
中谷氏の配慮により、著作権は執筆者に帰属しブログでの公開も可ということでしたので、ここに転記します。

ちなみに中谷氏が制作された冊子は夏コミ会場に伺ってゲットして参りました。しかし、10時半すぎに会場に行ったのですが、入場制限を行っていて往生しましたw 他に目的のない僕のような者は昼過ぎ頃に伺うのがベストなのかも知れませんね。11時半頃でしょうか、帰り際にスタッフの方たちがゆりかもめの国際展示場前駅方面からの入場者をせき止める柵を撤去していましたし・・・。
ともあれ、以下に公開します。
"moeの彼方"
マンガ、魔法先生ネギま!原作者の赤松氏は、萌えを愛であると言った。それはいい。だが現象としての萌えを把握しようとするとその核心にはキャラクターがあり、そのキャラクターは断片化された様々な「属性」を再構成されたものであると見る向きもあるようだ。例えばネギまで言えば、構想段階で登場人物を設定するためにまず属性を決定し、その組み合わせを決定してからキャラクターに肉付けされたのは有名な話だろう。
その状況と、万人に共有されるような(大きな)物語が喪失した現状を併せて、現在を「データベース消費」の時代と論じる評論家もいる。既出の要素は組み合わせの材料に過ぎず、新出の要素は新たに標本化されて既知のものとされる状況が、萌え業界にはある。それも別に構わない。だが、どうもこの状況は萌えに限った話ではないようだ。音楽やそのほかの芸術、漫画や文学さえも、「すでに語られたこと」を組み合わせているようにも見える。無数に増殖する表現ジャンルごとの要素の、可能な限りの組み合わせの果てにあるものは、いったい何なのだろうか。
この状況はグローバル化がもたらしたものだと、個人的には考えている。少なくとも音楽やそのほかの芸術、文学などはそうだろう。だがこれまで日本で発展した漫画やアニメ、そして燃えや萌え(以下、併せてmoeと表記する)はどうなのか。結論からいえばこれらもグローバル化の産物に似たものだと考える。作られているのは日本だが、それぞれの作品に載せられるmoeの属性は、地域や時代を超え、現実と空想さえ飛び越えて収集されたものだからだ。しかし、これをグローバル化と呼ぶのは矮小化だろう。僕はこの状況を、アニミズムの復権ではないかと愚考している。
日本には神道がある。神道と告げると先の大戦と自動的にリンクする人も居られるだろうが、天皇と頑なに結びつけられた大上段のものを指す意図は僕には無い。田舎道の道祖神さんであるとか、山河やいくつもの動物。万物と万象を無限に飲み込んでいこうとする、ある意味どん欲で素朴な体系が神道の本質だと僕は思う。世界の全てを標本化し尽くさんとするこの衝動は、グローバル化であるとか、拡大を続けるGoogleにその姿を同じくしているようにも見える。……いや、逆だ。例えばGoogleは、WWWの全てを飲み込みたいようだが、その結果現出するのはグローバルな情報共有であり、脳の機能の外部化・外脳化である。だがこれは、人間の文化史を紐解けば、世界を支配したり同化しようとしたアニミズムの衝動を受け継いでいるようにみえる。転じてmoeは、時間や空間を超えて宇宙の全てを飲み込もうとするヒトのどん欲で素朴な衝動ではないのか。そう思う。
moeの衝動は、果たしていつまでも続くだろうか。個人的には不吉な予感がある。現在のmoeの隆盛は、カンブリア爆発に似ている。人類だけではなく地上の生命はカンブリア爆発を生き抜いた者の子孫だが、五億数千万年前に生物は極めて多様に分化し、大量に絶滅した。先のことは分からないが、(冗談交じりでも)絶滅が危惧されるほど日本人は今後減りゆくし、それに併せて経済活動も低下しmoeを生み出す環境も縮小を余儀なくされるかも知れない。それどころか世界規模でみても、資源枯渇や気象変動などの対処が難しい人類的な問題が横たわっている。moeの未来は暗いかも知れない。
だが、いまある地上の生命はカンブリア紀を生き延びた。カンブリア紀を進化の実験室と呼ぶ向きもあるらしいが、多様化を続けるmoeはもしかしたら同様に実験し峻別するための現象なのかも知れないとも思う。実験の全容は分からないが、少なくともその実験には最初に述べたように「愛」が含まれているだろう。果たして僕らはmoeという状況を護り続けるのだろうか。それともそこから、次代に連なる新しい何かを見つけ出すことになるのだろうか。そんなことをいま、考えている。
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